<第2章 染匠 小室容久のルーツ>
私のルーツ、私のDNA 〜 日本の伝統工芸に通う血脈
私の母方の祖先は丹後縮緬発祥の家系、父方は北前船を持ち山形で生糸を買付けて丹後で織らせ、京都、大阪、博多、東京などを廻って品を卸す呉服の総合商社でした。
私は神戸に生まれ、アメリカ、イギリス、中国、韓国等、外国人居住者が多く住む環境のなかで育ちました。外国人の友人も多くいて、彼らは折に触れ自国への愛国心やプライド、歴史や伝統、文化などを誇らしく語り、そういう人が身近にあまりいなかった私にとってはとても新鮮で、結果的に私自身が日本の歴史や伝統、文化への造詣を深めることになりました。
今思えば、私が伝統的な手法による草木染に惹かれたのは、そうした神戸の環境の中で育ったことや、日本の伝統的な美を織り成す職業を生業としていた祖先のDNAが私の中に刻まれていたからだと思っています。結局、それが草木染との出会いを呼び、自然と文化に抱かれた秋月の地へと導いたのではないでしょうか。
草木染との出会い 〜 一瞬で惹かれた草木染の魅力
若い頃、実は駆け出しの商業カメラマンをしていた私は、ファインダー越しに現れては消え、また今度は違う色が現れるという草木染の変幻自在な色模様に翻弄されたことを今でも鮮明に覚えています。
当時はまだ銀塩写真のため現代のように試しに撮ってモニターで確認することができません。先にポラを切って色味などを確認してから本番の撮影をするのですが、何度ポラを切っても思い描いた色にはなりません。茶色のショールなのにファインダーを覗くと、黄色や赤やグレーなどが色のそのまた奥に見えてくる。見る角度によっても色が違って見えるのです。いったいどの色を写し撮ればいいのかわからなくなったという苦い記憶があります。「これは不思議、これは深い、これは手強い」、それが初めて草木染と出会ったときの私の偽らざる印象でした。
その一方で、透明感のある純粋な色の美しさ、奥深さ、その中に潜む凛として品のある力強さに心惹かれ、「ああ、いつか自分でこの色を染めてみたい!」と、心の趣くまま草木染の虜になっていったのです。
都会から田舎へ 〜 時代の最前線からの訣別
商業カメラマンを経て、私は時代のトレンドを創造する企画会社の総合プロデューサーとして、好景気を背景に生き馬の目を抜くような熾烈な競争に明け暮れる毎日に埋没していきました。私は次から次と企画競争に勝ち続け、若くして業界にその名を知らしめ、内外から一目置かれる存在になりました。すると若気の至りが頭をもたげ、気がつけば傲慢さが鼻につく、人も世間もお金の物差しで測るような愚劣な人間に成り下がっていたのです。
あるとき、失敗を犯した部下を叱責する自分の言葉に、自分自身ぞっと身震いしたことを覚えています。そういう自分にたまらなく嫌悪感を覚え、このまま都会にいると、もしかしたら子供たちもどこかで私と同じような感覚に染まり、そういう嫌な人間になってしまうかもしれない、そうなったら自分の子供であっても好きになれないだろうし、私自身もそんな親にはなりたくない。目の前にあるような価値観が幅を利かす都会の環境の中で子育てをしたくない・・・そう思った翌日にはもう会社に辞表を出していました。
周りは、私が気でも狂ったのかと大騒ぎしていましたが、私は全てに区切りをつけ、それまで合間、合間で続けていた草木染を本格的に極めたいと思っていたこともあり、ここで人生の軸足をそちらに移そうと決心しました。それが都会を離れ、田舎に目を向けるきっかけでした。